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2010年10月01日

ぐだぐだしてました

映画「悪人」を観に行った。

この映画を観たら、たぶん思い出したくないことを思い出すだろうと、なんとなく噂やポスターを避けるようにしていたけど、彼が観たいと言い出した時、つい一緒に行ってしまった。予想通り辛い感情が呼び起こされたけど、やっぱり今は行ってよかったと思う。素晴らしい映画だったとは思えないけどね(お金を払って観るなら楽しみたいので)。映画の日でよかったです。

殺された女の子が、自分の都合のよいように理屈をつけて他人のせいにし、現実を見ないように、自分だけは傷つかないようにする攻撃的な感覚、すごくよくわかる。と同時に、そりゃ殺されるよね、殺した方もタイミング悪かったよねと、距離を置いて安全な場から眺める自分もいる。自分が傷つけられるかもしれない、バカにされるかもしれないという怖れを感じた時は、頭の中がガガガーとフル回転して「こうすれば笑われずにすむ、人にかわいそうだと思ってもらえる」方法をはじきだして、自分だけの利益のため誰かを踏み台にすることは私も本当によく陥りやすい。完全に自分の中の大人の精神状態がふっとんで、冷静で客観的な判断ではなく、こどもの頭で感情的に導き出した案を採用してしまう。その姿がベタベタに演じられるのを観るのは辛いけど、「そんな自分もいるんだ、でもそれじゃ楽しくないから、今さらだけどアダルトセルフ育成してるんだよ!ちくしょー」と再確認できてよかったかな。

それから、私が一番感じるのを怖いと思っている感情に触れるシーンが続いて、映画が終る頃には、涙がだらだら後を引きずってにじみ出す最悪なテンションだった。「悪いけど誰かに伝えなきゃ収まりがつかない」と思ったけど、憔悴で言葉もでてこない。歩いているうちに靴屋のカラフルなスニーカーが目に入って物欲が動き出し、食欲が動き出し、買物して辛いものと甘いものを食べて、あっという間に気分が落ち着いてしまった。十数年抱えていた苦しい記憶まで、懐かしいような愛らしくなるような、新しい印象に感じる。買物と食事って、傷ついている時にとてもやさしくしてくれるし、パワフルで簡単に気分をよくしてくれるけど、根本的解決にはならないよね。そんなわけで帰ってからもう一度、苦しい思いをあらためて見てみることにした。

夏休みにかかってきた電話は、友達が母親を殺したという報告だった。友達だけど、恋じゃなくてすごく親近感のある、大好きだけどセックスしたいと思わなくて、一緒に寝ていても、ふれる肩からじわじわ幸せがこみあげてくるような大切な存在だった。しょっちゅう遊ぶわけでもなく、携帯も普及してない頃だったから偶然会ったら楽しいし、久しぶりに会ってもいつも一緒にいるように感じていた。たくさん話したり騒いだりした楽しい記憶より、並んで風にあたり、何も言わなくても安心して満足な気分でいた記憶の方が強い。そんな友達だった。

電話を切った時、日本語だから意味はわかるけど、本当に何が起こったのか理解はできない、わけのわからない状態になった。体はしっかり立ってるけど、息が詰まり呼吸もとぎれとぎれの自分を、もうひとりの自分が遠くにいるような感じで眺めていた。何を話したのかは忘れたけど、ちょうど近くにいた妹は何も言わずに私を抱きしめた。体温のあたたかさを感じた瞬間悲しい感情が爆発して、号泣する自分を感じながら、一方で『こんな場合、私ならどうすればよいかわからないのに、いきなりハグする妹はなんてすごいんだろう』と尊敬したりもしていた。そして今、十数年前のことをここまで覚えているのかと驚きながら書く自分に、当時の、自分の心がふたつになったような感覚を思い出す。

悲しみが引いたあと襲ってきたのが、この現実に対する解釈をどうにか変えてしまいたいという強烈な怒りの感情だった。何かしら殺されることをした友達の母親が憎くて仕方がなかった。頭の中で彼を追い詰める母親になりきる想像をしたり、その想像の姿を更に別の自分が見て、これじゃ殺されても文句は言えないと批判したり、殺すまで追い詰められる彼になりきってみたりした。

殺したあと自分も飛び降りたことを思うと、我に返ってしまったこと、母親を殺したことを理解しているということが辛くて辛くて仕方がなかった。傷つけられて殺して、殺したことに更に傷ついたんだと思って苦しかった。友達は死ななかったが、私は事件について情報を集め、面会に行くなどの現実にできることは何もしなかった。ただ、遊ぼうと思ったときに会えなくなったという状況を恨み、会えないなら死んだと同じだと考えて、彼との関係を終了させた。おもちゃを取り上げられた怒りを抑圧したまま、十数年過ごしてしまった。

どうして殺されるようにすることより殺すことが悪いことなのか納得できず、なぜ殺してはいけないのか?という問いを聞くたびにイライラした。魂を殺すような行為があふれる中で、なぜ物理的な殺人だけが鬼のように叩かれるのか、ニュースで殺人事件を聞くと、加害者の知り合いになったような気持ちになった。夏には時々どんよりしたやるせない気分になり、誰かと過ごして安心した満足感を味わうと、切なくなって疲労した。それでも、そのうち時が経てば薄れるものだと信じ、記憶も感情も見ないようにしていた。

そんな風に年月を過ごしてきたことを書き出してみたら、私の悶々とした思いは、他人と関っていないから消えないのだと気づいた。人がどんな風に感じ、生きているのかを自分の頭の仲でイメージしているだけだから。友達は私の脳内では十数年前の状態でいるけれど、亡くなっていなければ、服役中なのか何をしているのか30代男性という姿で生活しているだろう。まさか昔の知り合いが、自分のことを思い出しては憂鬱になっているとは知らずに。苦しかった記憶の蓋を開け、何の感情も持たずに眺めてみれば、大事にしまっておいてもよいし、今できることをはじめてもよいし、何をしてもよいのだということがわかって少し嬉しくなった。その時感じている幸福をその瞬間に味わうこと、味わうことのできる自分がいることに感謝します。

posted by ナナヤマート at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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